2026年3月25日
廃墟に根を張るものの強さ——地球の果ての温室で
植物は、廃墟に強い。人間がいなくなった場所にこそ、草や蔦が這い込んでくる。キム・チョヨプの『地球の果ての温室で』を読んでいると、その事実がSFの文法を通してじわりと別の意味を持ち始める。
舞台は「ダスト」と呼ばれる謎の災禍が世界を覆った後、半世紀ほど経った地球だ。ダストの正体は明かされないまま物語は進む。かつての都市の多くは廃墟となり、生き延びた人々は共同体を作りながら復興を続けている。主人公のアヨンはダスト生態研究センターで働く植物学者で、廃墟地帯に異常繁殖している謎の蔓草「モスバナ」の調査を命じられる。そのモスバナの群生地で、青い光が見えるという噂があった。幼い日に不思議な老婆の温室で見た記憶と一致する光——アヨンはその記憶を手がかりに、大厄災の時代を生き抜いたある女性の存在へと辿り着く。
構造は二層になっている。現在のアヨンの調査と、過去のレイチェル・カーソンという女性の物語が交互に語られる。レイチェルは大厄災のさなか、さまざまな避難所を転々としながら生き延びた人物で、本書のもう一人の主人公だ。植物学者という職業を通じて、絶滅寸前の種を守ろうとし続ける彼女の姿が、現在のアヨンの調査と呼応していく。
この小説が持っているものの中で特に印象に残るのは、「記録すること」への眼差しだ。レイチェルは絶望的な状況でも植物の記録を残し続ける。それが誰かに届くかどうかもわからないまま。アヨンはその記録の残り香を、半世紀越しに受け取ろうとしている。記録することは誰かに向けた手紙を書くことに似ていて、その宛先が遠ければ遠いほど、行為の純粋さが際立つ。
著者のキム・チョヨプは漢字で「金草葉」と書く。彼女が植物を軸にした小説を書いたことを偶然とは思えないという声をよく見かけるが、確かにそう感じる。本書はコロナ禍のロックダウン下、ソウルの作家用レジデンスで書かれたという。外の世界が止まっているとき、窓の外の植物だけは季節に従って動き続けていたはずだ。その対比が、作品の底にある感覚と重なる。
韓国SFというジャンルは、デビュー短篇集『わたしたちが光の速さで進めないなら』でキム・チョヨプを知った読者には馴染みがあると思う。本作はその短篇集の繊細さと詩情を保ちながら、長篇ならではの時間の積み重ねと複数の視点を加えている。短篇のキム・チョヨプが好きな人には、また別の魅力として届くはずだ。
『シリコンバレーのドローン海賊』や『プレイグラウンド』と気候変動というテーマで地続きでありながら、本作の手触りはそれらと少し違う。絶望に対して声高に抗うのではなく、ただ根を張り続けることへの信頼が、この小説を貫いている。廃墟にモスバナが繁茂するとき、それは生命の執念深さの証明だ。
廃墟に根を張るものは、弱くない。本書を読むとそう思えてくる。